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単純さ、複雑さ、純粋さ

かんがえごと 論点 感想

とても興味深い文章を目にしたので紹介します

 

まずは原文からどうぞ⇩

世界と人間の複雑さ、友情についての覚書――私が「カウンター」に参加する理由』 (http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3202&syosekino=8212 

 

続いて感想⇩

「単純さ」の元?

インターネット上でさまざまな情報にふれていると、いろいろなことを知った気になる。でも実のところ、実際に人と会うほうが情報量ははるかに多い。表情や仕草、血色、目の動き、雰囲気、微妙な言葉の抑揚や間、体温……。人が帯びる情報は膨大で、それはインターネットの比ではない。
ネット上でやりとりをしていてすぐに炎上したり荒れたりするのは、実質的な情報量が少ないからである。親しい人の間でもメールや掲示板でやり取りをすると思いがけず気まずくなったりすることもある。私は連絡を取る時、実際に会えればそれに越したことはないが、時間が許せば手書きの手紙を用いるようにしている。それは筆跡という複雑さによって情報が増えるからだ。

ここで指摘されている点は、日頃から私自身が痛感させられている部分でもあります

私も、顔の見えない状況での情報交換やコミュニケーションは苦手としていて、出来ればしたくないというのが本音です

目の前に人が居ないという状況に置かれると、普段、どれだけ生身の人間の放つ情報に頼っているのかというのを、嫌というほど思い知らされます

 

メールやネット上に溢れている文字などから得られる情報は、同じ内容を直に人に会って聞くのに比べてとても少なく、「真意」を汲み取る為に色んな想像を働かせなければなりません

もし、それが面倒になって、最初受けた印象や直感だけでその内容を判断してしまうと、勘違いやトラブルが起こる確率は格段に上がる

自分の経験からは、そんな印象を持っています

これを元にすると

「メールでのやり取りで気まずくなっちゃったけど、実際に会って話してみたらなんてことなかった!」ということが頻繁に起こったとしても、それは全く不思議なことではなく、むしろごくごく自然なことだろう、と私は思います

「生身の人間が放つ複雑で膨大な量の情報を、一から十まで寸分の狂いなく正確に、文字から得られる情報だけで把握する」

そんなことが出来る人間が、そうそう居るとは考えにくいからです

 

大切なのは

ネットというのは、スッカスカの情報がバカみたいな量存在していて、そこから自分にとって有益なものだけを選択し、かつトラブルに巻き込まれずにいられる、なんてこと、まず無理なんだ

という認識を各自が持つことだろう、と考えています

メディアリテラシーと言い換えることも出来るかもしれません

危険なのは

ネット上で目にした情報の真偽を確かめる努力を怠り、自分が目にしたものは全て正しいのだと錯覚してしまうことです

自分にとって都合のよいものになればなるほどその傾向は高まるし、逆に都合が悪い情報に対しては無意識のうちに避けがちになっている、そういう面も併せ持っているかもしれません

常に、自分はどうだろう?と自問しておくことが必要だと思います

 

このことは私が書いているこの文章も例外ではなくて、とんでもない嘘が紛れ込んでいるかもしれません(笑)

それを判断するのは書いている私ではなく、読んでいる皆さん一人一人です

そうして色々考えるというプロセスを踏んだ結果としてなら、どんな感想を持たれても、筆者としては何の問題もありません

しかしその判断のもとになっているこの文章もまた、圧倒的に情報量が少なく、常にある種の不安定さを抱えたものである、という前提は忘れないでおいてください

十分な材料がない中で下した判断に「絶対」なんてない、そう思っています

結局のところ「単純さ」ってなあに?

人を単純化し、その単純さゆえの無意味さと妄想によって差別は引き起こされる。レイシズムヘイトスピーチは、世界や人間がもつ「複雑さ」というかけがえのない豊かさに対する、不遜な挑戦であると思う。
差別に抗するために今必要なことは、世界や人間の「複雑さ」を見つめる努力を怠らないことではないか。そのためにすべきことは、私は「面と向かって人と会う」ことだと思う。ありありと体温をもって感じるその人の存在そのものと、全面的に向き合うことだと思う。

ここに書かれている「単純さ」が引き起こすのは差別に限らず、性質は少し違うかもしれませんが、誹謗、中傷、いじめなどが起こるときにも似たような面が関係している気がします

 

しかしそもそも、「単純さ」ってなんなんでしょう?

 例えば

人種差別の場合

 肌色の違いや文化・習慣の違いに優劣を認め、それらを理由に不当な扱いをします

性差別の場合

 男だから、女だから、同性愛者だから、等の理由で嫌がらせなどをします

日本のヘイトスピーチの場合

 国籍が韓国である、他の外国人より特権を持っているのではないか?等の理由で憎悪表現を叫びながら歩き回ったりしています

会社や学校で起こるいじめの場合

 なんとなく気に食わない・ムカつくから、等の理由で仲間はずれにしたり、暴言を吐いたり、暴力を振るったり、物を盗んだりします

ネット上で起こる誹謗・中傷の嵐の場合

 周りがそう言っているから、なんとなくそういう空気感だから、等の理由で特定の個人に対して高圧的な言葉や暴言を発し続けます

 

肌の色が違うから、文化や習慣が違うから、性別がどうだから、国籍が違うから、ムカつくから、そういう噂を聞いたから、周りもやってるから、なんとなくそう思ったから・・・・・

いくつか例を挙げてみましたが、これらに共通しているのは

主義・主張、行為に理由があるように見えて理由が無い、理由が理由になっていない、にもかかわらず自分のやっていることを正当化している

という点です

なぜ正当化できてしまうのか

それは彼らが、一人ひとりの人間(個人)の姿から目を逸らし、彼らの頭の中に存在する「属性」のようなぼんやりとしたものを絶対視し、そこに無理やり当てはめてしまうからだと思います

しかし残念ながら、人間というのはそんな属性なんかで一括りに出来てしまうほど、単純でわかりやすい存在ではありません

 

何をするのが好き・苦手なのだろう?、好きなスポーツはあるのだろうか?、どのチームを応援しているんだろう?、どんな音楽を好むのだろう?、何が得意なんだろう?、どんな学問に興味をもっているんだろう?、将来の夢とかってあるのだろうか?、好きな人はいるのだろうか?、今までどんな人生を歩み、どんな人と出会い、経験をしてきたのだろう?、今何を考えているのだろう?・・・・・

こんなことを想像してみることもなく、最初から属性のようなもので相手を判断しレッテルを張り、自らの主張や行為は正しいという錯覚を正当化していく

これが「複雑さ」に対する「単純さ」である、と私は考えています

 

「情報を得て、判断し、行動する」という過程があまりに短絡的で

なにより、自分の頭で「考える」という段階をすっ飛ばしてしまっている

「思う」という段階で起こした行動を正当化してしまう

このことは、物事を単純化してしまう一つの要因になっている気がします

 

人は、気を緩めていると、色んなことを「なんとなく思う」というところで片付けてしまって、その先にある「考える」ということをさぼりがちになります

「考える」というのは時間に余裕が無ければ難しく、「なんとなく思う」だけなら簡単で、自分に不都合なことがあってもそれに目を向ける必要もなくラクなので、当然と言えば当然なことです

しかしそういう「ラク」の積み重ねは、取り返しのつかないような状況を引き起こし、やがてその「ツケ」を払わなければならない時が訪れます

そうならない為に人間には、人間の「複雑さ」にじかに触れ、直視し、考え、受け容れる姿勢を持つことが大切なんじゃないかなと思ったりしています

 

初対面の人に会ったとき、「どこ出身なのか」とか「大学はどこなのか」ということを訊ね、その情報をもとに「この人は○○出身の○○な人だ」という風に、言葉でその人のイメージを作ってしまいがちです

そのこと自体は仕方のないことです

ただ

そこに居るその人はその人であり、他の誰でもなければそれ以上でもそれ以下でもない、一人の人間である

そしてその人は、言葉を並べただけで表しきれるほど単純な存在ではない

そのことは、自分自身の心に言い聞かせ続けたいです

意味や理由を探す、その前に・・・

まずは行動しよう。それは世の中のためにではなく、目の前のその人のためでいいのだと思う。そのことの意味はきっとあとからわかってくる。
友人が困難に直面している時、何とかして力になりたいと思うのは、そこにいるその人が、リアルな「人」だからだ。
いわば属性のような単純化された差異をはるかに超えた、計量不可能なほどに複雑で、唯一無二のその人の豊かさが、私自身の内なる複雑さと呼応するから、友人の痛みが私自身の痛みになるのである。

人は、何か行動を起こすとき、そこに意味や理由を見出そうとします

このことについてどう考えるかは人それぞれだと思いますが、私自身は、基本的にはとても大切なことだと考えています

意味や理由を探そうとすることで、一旦立ち止まって考える時間を設けることが出来るからです

何でもかんでも「思い立ったらすぐ行動」「考えたって何の意味も無いのだから行動あるのみだ」、という主張には少し違和感を覚えます

重要なのは

明確な意味や理由を見つけることでも、はっきりと正解を出すことでもありません

自分がやろうとしていることが客観的にみてどういうことなのかを、少し立ち止まって冷静に考えてみる、そういう姿勢を持つことです

 

しかしそれと同時に、例外もあるように思っていて、それが「人助け」やその類のものです

例えば、親しい友達が目の前で理不尽な扱いを受けているとき

それを助けようとする、その行為に対してその場で意味を求めたりはしないと思います

例えば、迷子になり親とはぐれて泣いている幼い子供を目にしたとき

「私は~~という理由があるからこの子を助けなければいけない」なんて考えたりするでしょうか

 

こんな風に、人が人を助けたい、力になりたいと思うのは、何か言葉で表現できる理由があるわけでは無くて、ただただ純粋な気持ちが根っこにある、それだけの話だと思います

立場や職業がどうだからとか言う前に、やっぱり大切なのは生身の人間が持つ心の動きなんだなぁと、そういう話です

そして

リアルな人間が放つ「何か」によって、自分の心が大きく動かされたと感じたとき

それは「あれこれ考えるな、動け」というメッセージなのかもしれません