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憲法の話をしよう

かんがえごと 論点

昨日は憲法記念日でしたね

1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して設けられた祝日のようです

全国各地で集会などが開かれたりしたようで、私も行ってみたいな~と思いながら一日を過ごしていました

 

 

さて今回のテーマは、「憲法」についてです

個人的に感じていることを書き連ねてやろう

ってな感じでまいりますよ~

 

憲法を取り巻く現状への違和感(上)

ここ数日

テレビや新聞では、憲法記念日に合わせて行われた世論調査の結果が公表されていたり、「憲法改正」や「9条」といったフレーズをよく目にしたりしました

またネット上では、自民党憲法改正推進マンガなどが話題になっていたりと、普段に比べ「憲法」というものについて考える機会も多かったのではないかと思います

(私自身も、こうやって文章を書いたり、改めて日本国憲法の全文を読んでみたり、自民党改憲草案に目を通したりと「憲法」に触れる時間は多かったです)

 

しかし、そんな一連の流れを見ていて違和感を覚える部分がありました

これは別に今回に限ったものではなく、物心ついてからずっとそうなんですが

日本という国で憲法の話になると、(必ずと言っていいほど)改憲護憲か、というところから話がスタートしてしまっている

ということです

このことが、私にはどうにも腑に落ちません

「オイオイ、ちょっと待て、順番がおかしくはないかい?」という違和感です

 

テレビを見ていても、憲法改正に賛成か反対かという話から始まりますし、世論調査なんかをみれば、憲法9条は改正すべきか否かという設問があります

市民運動などの様々な動きをみていても、憲法改正は待ったなしだとか、憲法改悪は絶対阻止だとか、そんな具合です

憲法について論じようとすれば、「改憲派」「護憲派」という対立構造も漏れなく引っ付いてきます

 

私が特に問題視しているのは、改憲護憲を主張する人たちが、どうしてそのような主張しているのかという、理由の部分です

例えば①

憲法を変えるべきと主張する人が、そのことを主張する理由の中には

「アメリカに押し付けられたから」とか「自主憲法ではないからダメなのだ」といったものがあります

例えば②

憲法9条は絶対に変えてはいけないと主張する人たちが、そのことを主張する理由の一つに

「9条は素晴らしい条文、とにかく変えては駄目なのだ」というものがありますが、肝心の9条の定義ははっきりさせておらず、曖昧なままにしてあるなんてことがあったりします

 

一見もっともらしい主張に見えるかもしれませんが、果たしてこれらの理由には、その主張を正当化できるだけの根拠が備わっているでしょうか?

 

残念ながら私の頭の中は、疑問符で溢れ返ります

どうして疑問符が付くのか

それは、「憲法」というものが持っている性質や本来の姿に目を向けると、見えてきます

 

憲法がどうのこうの」と言う為には

まずそれが何なのかを最低限把握しておく必要があります

(この例えが適切かどうかは分かりませんが)

何かスポーツをしようとしたとき、そのスポーツに関しての知識が皆無であれば、そのスポーツを楽しむことは愚かプレイすることも出来ないでしょう

憲法にも似たようなところがあって

「そもそも憲法とは何なのか」を理解できていなければ、それを正しく扱うことも、有効に利用することも出来ないのではないか

と思うのです

 

しかし、今の憲法を取り巻く日本の現状を見ていると

この一番根っこの部分、そして最も大切な部分がおろそかにされているような気がしてなりません

そもそも憲法ってなあに?

憲法」と耳にしたとき、目にしたときに多くの人が思い浮かべるのは恐らく、憲法の条文なのではないかと思います

学校の教科書などでも、憲法を扱う箇所では真っ先に条文が載せてあったりしますし、文字であれば目に見えるので比較的イメージしやすいですよね

では、この条文を憲法と言い切ってしまっていいのでしょうか

確かに条文は憲法を構成するものの一つ(憲法典)ですが、あの前文から十一章(百三条)にわたって書かれている条文だけが憲法の全てだとは、私には思えません

 

あの条文が憲法の全てでは無いのなら、一体何が憲法なのか

私は、憲法の条文の奥底に流れている「理念」がそれに最も近いのではないかと考えています

理念とはつまり

どのような意志のもと、どうのようなことを意図して書かれた条文なのか

というようなことです

もう少し分かりやすく本質的なことを言えば

「自分たちの住むこの国を、私たちはどのような国にしていきたいのか」という思いが元になって形作られるものである

というようなニュアンスで表現できます

 

この国は誰か一人の権力者のものではない

だから、主権は国民にあると書こう

私たちは、自分たちの勝手な都合で誰かの命を奪い合うような戦争は、絶対にしたくない

だから、軍は持たないし戦争もしないと書こう

この国に住む人一人ひとりが、一人の人間、個人として尊重される、そんな国にしたい

だから、そのことを条文に盛り込もう

この国では、一部の人が物事を決めたりするのではなく、国民全員が参加していろんなことを決めていくために、民主主義という制度を取り入れよう

そしてその為には国会や司法や内閣とか色んな枠組みも設ける必要がある

だから、それについても書いておこう

 

こんな風に一つ一つの条文の奥底には

何故それが書かれたのか

そして

どのような理念が元になっているのか

そういった、目には見えないけれど感じ取ることの出来る「なにか」が流れている、そんな気がします

 

憲法」は

目には見えないけれど、確かにそこに在る、人々の思いや意志が凝縮されることによって生まれた

そんな存在なのではないでしょうか

憲法を取り巻く現状への違和感(下)

憲法とは何なのかを考え、自分なりの結論が出たところで、違和感の話に戻ります

 

冒頭で私は、改憲護憲かというところから憲法の話が始まることに違和感を覚えている、と言いました

それは、「私たちはこうしたいから」という段階をすっ飛ばして、「変えるべき・変えるべきではない」という話になってしまっているからです

これだけで首を傾げたくなる状況ですが、もっと酷いのはその理由で

変えるべきと主張する人たちは

「アメリカに押し付けられたのだ」とか「自主憲法を制定すれば敗戦国ではなくなるのだ」といったことを根拠に挙げています

このようなことで憲法を変えなければならないなどと言われると、もう、首を傾げる気さえ失せます

また、変えるべきではないという主張の中では

「変える」という主張に対して「変えるべきではない」と主張をするだけで、内容が消極的かつ抽象的(中身が空っぽ)というような印象を受けることがあります

 

憲法というものの本質が「理念」にある限り

その条文がどのような状況下で書かれたのかという事は基本的に関係ありません

究極的に言えば

その条文が、いつ、どこで、誰に、どのようにして書かれようが

そこに流れる理念が、国民の総意としての意志であるのならば、それは憲法として成立するわけです

これは即ち、憲法の条文を改正しようとする場合

現行憲法とは異なる又は逆行する理念を、多くの国民が共有・支持していることが前提条件になって来るということです

つまるところ、「押し付け憲法論」なるものや「自主憲法の制定」なるものは、それだけでは、憲法の改正という手続きの前では全く意味を為さないし、何も存在しないに等しいような論拠であるという事であって、このようなことを根拠に憲法を改正すると主張することがどれだけ馬鹿げたことなのか、憲法の意味に照らし合わせて考えると理解できるのではないでしょうか

 

同時に

「自分がこうしたいから」という部分を抜きにただ憲法改正に反対しているだけで、本当の意味で憲法について考えていると言えるでしょうか

憲法を改正すべきではないと主張するのであれば

憲法が掲げている理念を再確認し、それが自分たちの意志と違ってはいないかを自問し、そこに間違いがないと確信を持って初めて、それらを根拠に憲法を改正する必要はないという主張をすればいいのではないか

と思います

 

 

《ここで少し余談を》

日本国憲法第十章(最高法規)にこんな条文があります

第九十九条

天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

さてさて、果たしてここに書かれていることって守られてるんでしょうか?

甚だ疑問ですねぇ~

憲法の話をしよう

色々と書いてきましたが、私が一番強調したいのは

憲法改正の話をする前に、憲法の話をしようよ

ということであり

憲法改正に賛成だとか反対だとか言う前に

自分たちはこの国をどんな国にしていきたいのか

もっと広い意味でどのような世界を作っていきたいのか

理想や希望や未来について真剣に考えて、それをみんなで語り合おうよ

ということです

そういうプロセスを積み重ねた結果として

憲法を変えようという気持ちが国民の間で膨らんでいくのなら、変えればいいし

そうでないのなら、変えなければいいと思います

 

しかし現状では、国民の側からそのような話が出てくるのではなく

政治家の側から一方的な形で憲法は改正すべきだという声が聞こえてきます

中には、「国民の皆さんに憲法改正を味わっていただく」だとか、「現憲法憲法違反の憲法なのです!」などという発言をしている政治家の言葉を目にすることもありました

ここまで来ると、私にはもう理解不能です

そのような言葉の意味を論理的に説明できる人がいるのなら、ぜひ会って話を聞かせてもらいたいと思います

このような言動がみられる時点で

「私たちは憲法が何なのか全く理解できていません!!!」と公言しているのと同じなわけですが、当の本人たちには全くそのような認識は無いようなので、本当に困ってしまいますね

 

少し愚痴っぽくなってしまいましたが

このような現状があるからこそ

憲法改正に賛成か反対か」という単純化された二項対立に飛びつく前に、国民の側に求められているのは

そもそも憲法とはなんなのかを考えることであり

憲法を考えるということはつまり

どのような国にしていきたいのかという理念を考えること

なのではないでしょうか

 

確かな危機感

ここまでは、ある意味楽観的でポジティヴなことを書いてきたつもりですが

最後に、楽観できない現実問題としての憲法改正についても、触れておく必要があるように思います

 

現在の政治状況からいくと

このままいけば今後、一、二年の内に国会で憲法改正に関する発議がなされ、それに伴う国民投票が実施されるというシナリオが十分に考えられる、そういう状況です

この事実に関して個人的には非常に強い危機感を持っています

国政選挙投票率が50%そこらであったり、ジャーナリズムが瀕死の状態であったり、言論を取り巻く社会の風潮であったり、そういった今の日本の現状を総合的に考えると、はっきり言って、これまで書いてきたような悠長なことを言っている場合ではありません

 

現政権与党の出している改憲草案が万が一にも通ってしまうようなことがあれば・・・

考えるだけで恐ろしいです

 

そういうことが起こらないようにする為に、今自分がすべきことはなんなのか

それをずっと考えていますが、まだ明確な答えは見出せていません

自分の事だけ考えるなら、絶えず世間の動向を注視して、思考停止だけは起こさずにいられればなんとかなる気はしますが、自分の事だけ考えていてはお話になりませんから、それが難しいところです

しかしだからといって、独力のみで他人を動かそうとするのも非現実的です

結局のところは、やっぱり自分自身なのかな、というところで落ち着いてしまう気がします

もっと色んなことを学んで、色んな考え方に触れて、少しでも成長する

これは必要不可欠なことです

その上で、自分に出来ることは確実に実行する

そんな姿勢でこれからを過ごしていこうと、今のところは考えています

ゆくゆくは、同じようなテーマに関心を持つ同世代の人たちと話す機会があればいいなと思っていたりもしますが、もうしばらくはこのブログやTwitterでの発信を続けながら、地道に自分なりの考えを深めていくことになりそうです。。。