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【メモ】 2015.11/13 フランス・パリで起きたテロ事件に関して

《※以下の文章は、以前自分が記していたメモをちょこっといじって、並べただけのものです。》

 

パリで同時テロが起こってから二週間が経つけれど、今回の出来事を通して考えておかなきゃいけないことが、何だかたくさんあるような気がしていて…。うまくまとめることは難しいのだけど、今回の事件とその後の国際社会の反応と動きから、受けた印象とか考えてたことをざっと書き並べてみる。

 

単なる「テロ」として捉えるのには無理がある

「テロ」と「戦争」という二つの側面があって(個人的には「戦争」という文脈で捉えた方がしっくりくる)、フランスとIS間の戦争におけるIS側の反撃(軍事攻撃)が、「テロ」という形になって表れたという見方ができる。これは、「パリは『戦場』になった」ということも意味している。

 

フランスとISが戦争をしていると考えるなら、当然ISにとってフランスは「敵」。そして「ISにとって『敵』である」という状況は日本も変わらない。近い将来、米軍等の「後方支援」の名の下に自衛隊が中東に派遣されるようなことになれば、「日本が『戦場』になる」可能性も現実味を帯びてくると思う。

 

イスラム教とIS(Islamic State)を切り離して見ること

イスラム過激派によるテロが報道される度、過激派とムスリムを同視する風潮がイスラム圏外の人々によって醸成される。見ている側は、それらを切り離して捉えうるだけの冷静さを保たなきゃいけない。「私はムスリムです。テロではありません。」という紙を掲げていた人が印象的だったなあ。

 

「私はムスリムです。私はテロではありません。」という紙を持って渋谷に立った男性

http://temita.jp/wd/movie-t/athers/22989

「踏み絵のように『テロリストではない』という宣言をしなければと思わせてしまう社会、そしてそういう表明をしても怪しまれる社会。」

「難民や、移民、日本でも一般会社員として暮らす人々にテロの責任を負わせ、そのような攻撃を受けている人々が『自分は危険人物ではない』とアピールしなければいけない社会構造の暴力を感じる。追悼式と渋谷に取材しにいったけれど、もっともっと多様性があふれる景色を期待していました。」

 

パリが注目を集める一方で無視される惨状がある

「パリに対して向けられる世界の視線が、ベイルートやシリアで命を奪われた人たちに向けられないのは何故なのか―?」というレバノンやシリアの人々が国際社会に対して抱く「不信感」は、次第に「憎悪」へと変わり、「憎しみ」はいつか「暴力」として姿を現す。負の連鎖はこうやって始まるのだろうか。

 

こういった、ある種の「非対称性」は、国際社会における「日常性」と「非日常性」のような意識やもっと深いところに「(先進国=)『文明 対 野蛮』(=途上国)」というような構図の存在があることによって引き起こされているのだろうか。「国際社会」の人々が省み、考えるべきことがある気がする。

 

テロの目的と好都合な反応

テロリズム」というのは、暴力の行使により民衆や社会に対し恐怖を与えることによって、自らの政治的な目的を実現する為に行われる。だから、恐怖や混乱によって助長される偏見や差別、排外主義の高まり、不寛容さやそれらが生み出す人と人との分断は、テロリストの「大好物」なのだと思う。

 

恐怖を植え付け、疑心暗鬼に陥らせ、人々を分断しようとする動きに抗う術は、そう多くはないかもしれない。怖いものは怖いし、不信感だって募るだろう。そんな状況に置かれても尚、人間は、想像力を働かせ、「連帯」の声を届け続けられるだろうか。同じ人間として他者に手を差し伸べられるだろうか。

 

「テロとの戦争」という言葉の不思議

「テロとの戦争」という言葉は、とても変な言葉で…。というのも、「なに」と「戦争するのか」が分からない(「テロ」と「戦争」なんて出来っこない)し、敵が何で、戦う対象が何なのかを、表面からは読み取れない言葉だから。「テロとの戦い」を叫んでいる人たちは、一体、何と戦ってんの?

 

これらの言葉は正義の為に使われ、不思議なことに「テロとの戦い」「テロとの戦争」と言ってしまえば全てが正当化されてしまう現実がある。テロが何を指し、なぜ戦い、その後どうなるのか問われることも無く、これらの名の下に行われる行為すべてが正当化される。破壊であれ殺戮であれ、問答無用で。

 

継続・強化される軍事介入

今回の事件の引き金になったのがISに対する空爆だった可能性もある中で、事件後、フランスはIS空爆を続ける姿勢を示し、アメリカやロシアもシリアへの空爆を続けてる。下手すりゃイギリスやドイツも後を追うかもしれない。応報感情と「正義」が蔓延るこの流れの先には、何が待ってんだろう。

 

空爆には、基本的に「対症療法」的な意味しかない(当たり前だけど、「空爆」では今起きている問題を「解決する」ことは出来ないし、むしろ解決は遠のく)。それでも各国が軍事介入をやめない(やめられない?)のは何故なのだろう。「国民感情に応える為」というだけでは説明が付かない…。

 

テロ事件の政治利用

全米50州の半数以上で、州知事が安全保障上の懸念からシリア難民の受け入れを拒否し、米下院では、共和党が提出した難民受け入れを凍結する法案は可決され、日本ではテロ対策を名目に「共謀罪」の創設がちらつき始めてる。事件をおかしな方向に利用しようとする連中は世界中にいるみたい。

 

一方で、カナダでは首相が代わり、対IS空爆からの撤退を表明し、難民も25000人規模で受け入れる方向で調整されているらしい。どちらが「正しい」のかは人によって判断が分かれるだろうけど、事件を契機に色んな思惑が交錯しているのは確かなことで、何が起こっているのか、見ておく必要があると思う。

 

問われる日本の当事者性

日本では今回の出来事について、報道はたくさんされてる。でも、どこか他人事に思えてしまう。それは仕方がない。そんな状況だからこそ、中東とは宗教がらみの対立も植民地支配の歴史も無いはずの「日本が、ISから敵とみなされている」という事実と、少し向き合ってみたらいいんじゃないかな。

 

ちなみにISは、日本を敵だと見なすに至った理由として、日本の総理大臣が「イスラム国と戦う」国々への支援を表明したことを挙げている。もちろんこの表明がなかったとしても同じ状況になっていた可能性は十分にある。ただ、この事実をどう捉えるかもまた、重要なポイントの一つのような気がする。

 

最後に

まあ、こうやって言葉を発したところで、自分の中には「人が人を殺し、人が人に殺されている」という事実だけが、ただただ残り続けるわけで…。

なにもいいことない。むしろ、あほらしい。

でも、あほらしかろうが何だろうが、やめてはいけないことなのかもしれないと、どこかでそう思っているんだろうね。

 

今回の事件が抱える問題の先にあるのは、社会における「構造的暴力」をどうなくしていくのかであったり、戦争・兵器と経済の関係であったり、「自由であること」の意味を問い直すことであったり、多様性や寛容さをどう維持するのかといったような話だろうと、考えてる。